imperial hotel 2

posted on 05 Jul 2011 11:43 by kazeyama
しかしこうした完璧主義は大幅な予算オーバーを引き起こした。ライトはそれでも林との個人的な友情でかろうじて施工の総指揮を続けていたが、1919年に隣接する初代帝国ホテルが失火から全焼すると、新館の早期完成は経営上の急務となり、設計の変更を繰り返すライトと経営陣との衝突は避けられなくなった。さらに当初予算150万円が6倍の900万円に膨れ上がるに至って、林は総支配人を引責辞任、ライトも精魂注いだこのホテルの完成を見ることなく離日を余儀なくされる。
ホテルの建設はライトの日本における一番弟子だった遠藤新の指揮のもとその後も続けられた。1年後の1923年、設計から11年の歳月を経てライトの本館は完成、9月1日に落成記念披露宴が開かれることになった。関東大震災が東京を襲ったのは、まさに宴の準備に大忙しの時だった。周辺の多くの建物が倒壊したり火災に見舞われる中で、小規模な損傷はあったもののほとんど無傷で変わらぬ勇姿を見せていたライトの帝国ホテルはひときわ人々の目を引いた。ライトは二週間後このことを遠藤からの手紙で知り狂喜したという。
1945年3月1011日東京大空襲では、本館中央部から南翼、孔雀の間、演芸場などに多くの焼夷弾が落ち、焼失は総床面積の四割強に及ぶ大きな被害を受けた。終戦ともに帝国ホテルはGHQに接収され、そこで大規模な修復工事が行われ、ホテルは旧来の姿を取り戻している。

領が終わって日本を訪れる外国人が再び増え始めたことにともない、1954年にはライトの本館の裏手(現在インペリアル・タワーが建っている敷地)に客室数170の第一新館が完成、1958年にはその横に地上10階、地下5階、客室数450の第二新館が完成した(→ 画像)。これをうけて、1964年にはライトの本館を取り壊し、その跡地に新たに鉄筋コンクリート建て、地上17階、地下3階、客室数772の新本館を建設することが発表された。

震災にも空襲にも耐えたこのホテルの存続を訴える大規模な反対運動が起ったが、本館は地盤沈下などの影響で柱が傾き雨漏りがするといった老朽化の問題もさることながら、都心の一等地を占有する巨大な建造物の客室数がたったの270では話にならなかった。

ライトの新館は1967年に閉鎖され、翌年春頃までに取り壊された。跡地に建設された近代的外観の新本館は、1970年日本万国博覧会開会に合せて竣工。このときから「ライト設計の帝国ホテル本館」は、「ライト館」として、人々の想い出の中に生き続けることになった。2005年4月、新本館14階の「インペリアルフロア」に新設された「フランク・ロイド・ライト・スイート」は、ライト館のさまざまな箇所に施された独特なマヤ調の意匠やライト独自のスタイルでまとめられた内装や調度品を忠実に再現したものとなっている。

なお、ライト館の玄関部分は博物館明治村愛知県犬山市)に移築され、今日でも在りし日の面影を偲ぶことができる。また、東武ワールドスクウェア栃木県日光市)では実寸比25分の1のミニチュアで在りし日のライト館全景を再現している。

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